石巻 旧大川小学校
どうもです(^^)
昨日の反省を活かし、訪ねた地点一つごとに記事を書こうと思います。そのため、しばらくは今日(8/14)訪問した場所についての記事になります。
昨日「楽しみ」と言っていた場所、それは
学校管理下での悲劇の舞台 旧石巻市立大川小学校
……はい、楽しみと言ったのは不謹慎な気がいたしますが、かねてから訪ねてみたいと思っていた場所でした。なぜ二次避難までに時間がかかってしまったのか、なぜ普段の授業でも登っていた裏山ではなく川の方へ避難したのか、多くの謎が残っている場所でもあります。
率直に感想を述べますと、ただただ呆然とするしかなかった。言葉が出なかった。やはりテレビなどの媒体を通して見るよりも、実際に見るとなんとも言い表せないような、やるせない気持ちになりました。遺族の方々の複雑な思いはあったと思いますが、これは震災遺構として残すことになってよかったと思いました。震災の悲劇を伝えるには、十分すぎるくらいの、なんとも言えない雰囲気がそこにはありました。
↓跡形もなくなってしまった体育館。震災前の写真がなければ、何だったのかさえもわからないほどに大破しています。
↓校舎から体育館へとつながっていた渡り廊下の柱。写真右側が中庭方向であり、そこに流れ込んだ「川津波」が渦を巻いてこの渡り廊下を巻き込んだといいます。
↓児童が授業を受けていた教室部分。壁は跡形もなくなっています。二階の床は津波によって押し上げられたようです。
↓学校のすぐ近くにあった裏山。写真中央に見える白っぽいものが津波到達点を示しており、その上はコンクリートのたたきになっていて、集合写真を撮るときなどに使われていたそうです。左側の木々との境界付近になだらかな道があり、そこを使って普段からこの山には登っていたようです。
↓最終的に教職員、児童が避難しようとした、北上川に架かる橋。橋桁の水面からの高さは低く、ここに海岸から流されてきた松の木が引っかかり、津波をせき止めたことで水が堤防を乗り越え、学校に流れ込んだといいます。
ここに来て一番驚いたこと、それは
裏山が思っていたよりも近くにあったこと
なぜ授業などでも使っていたというその山に避難しなかったのか。そのときの判断はわかりませんが、とてもつらくなりました。
ここで起きた悲劇を繰り返さないために、さらに何があったのか調べてみたいと思いました。と同時に、防災教育とは何なのか、人の命を預かるとはどういうことなのか、すごく考えさせられました。
こういった情報で伝えられることは、あくまでも私個人の感想や、主観に基づいたものです。遺構として保存されることになったからこそ、できるだけ多くの人に自分の目で見てもらいたいと思います(アクセスが悪いのがネックですが)。
ここで亡くなったすべての方のご冥福をお祈りいたします。
それでは本日はこの辺で。またお願いします!