9年前のあの日のこと。

ご無沙汰しすぎております。管理人です。

ブログを書かなきゃと言い続けて、丸1年が経過しておりました。ゆるく、まったりとではありますが、ぼちぼち書いていこうかと思っておりますのでどうぞよしなに。

 

さて、今回は私が地震災害に興味を持ち、今の進路のきっかけになったとも言える、東日本大震災について書こうかと思っております。先日、あの日から9年が経ちました。月日というのは早いもので、当時小学生だった私も大学生になりました。記憶に基づいて書いていくため、思い違いもあるかもしれませんが、その点ご了承ください。

 

あの日のことについて書く前に、私がこの災害に対して強い思いを抱いている背景を軽く。私の生まれは北海道なのですが、父方の親戚が宮城県石巻市に住んでいます。幼い頃から年末年始は祖父母といとこ家族の家に行っていたため、地震というものは結構身近な存在でした。ちょっと強い揺れでも、「また揺れてるねぇ」くらいの感じ。そんな人々の様子を目にしてきました。

そんな中発生した、東日本大震災。発災時刻の14時46分。その日は授業が早く終わり、母が小学校の図書館で作業していたため、私は校内に併設された児童会館にいました。正座して(この姿勢が一番楽だった)漫画を読んでいたとき、体が大きくつんのめったのを覚えています。スタッフさんの誘導ですぐさま部屋から出て、廊下の中央へ。ものすごくゆっくりとした揺れで、めまいがしそうでした。しばらくして揺れが収まり、部屋に戻ってまた各々自分の好きなことを再開。が、揺れは一度では終わりませんでした。2回、3回と揺れたでしょうか、低学年の子たちは軽くパニックになっていました。揺れる度に廊下に集まり、こわいこわいと言ってスタッフさんにしがみついている子もいました。

大きな揺れはそれで落ち着き、その後、母が迎えに来ました。車に乗り込み、すぐさまテレビをつけました(当時の車内では後部座席でテレビが見られました)。そこで飛び込んできた、震源は宮城沖で最大震度7、太平洋沿岸に大津波警報発令の文字。自宅に帰る途中に流れた、上空ヘリからの中継で、仙台平野に向かっている沖合の津波の映像。そして、福島第一原発が水素爆発を起こしたという情報。この世の終わりかのような映像が流れ続けていました。

家に着いてからはずっとテレビにかじりついて情報を得ようとしていました。安否確認の伝言板と、津波や火災の映像、さらに原発の状況が繰り返し流れていました。それと、忘れてはいけないACジャパンの広告。あのCMを聞くと今でもあのときの緊迫した放送の様子が思い出されます(そして軽くトラウマです)。

夜になり、被災地に徐々に中継が入るようになってきました。宮城県では気仙沼、南三陸東松島、岩沼、女川など。……石巻からの中継がありません。その頃からでしょうか、母は外出時のニュース番組を片っ端から録画するようになりました。父はネットで親戚の情報を集めようとしていました。何で近くの街には中継が行っているのに石巻はないのか。そう私が言ったのに対し、(確か)父がぼそっと返した言葉が「こりゃ石巻は相当やばいんだろうなぁ……。」中継がない=取材に行けない、ということだとは思いもしませんでした。その言葉に愕然とした記憶があります。

 

12日の朝。地元紙の朝刊にでかでかと載った「M9.0」の文字と、巨大津波にのみ込まれる街の写真。あの一面の異様さは衝撃でした。その日の夕方だったでしょうか、民放でついに石巻市蛇田からの中継が入りました。が、中心部の様子など具体的な情報は一切なし。蛇田は内陸よりの地域であるため、それが限界だったのでしょう。中継が来たことで少しほっとしたと同時に、「中には入れなかった」ということがずっしりと響きました。

その後、待てども待てども石巻からの中継はなく。もちろん親戚とも連絡がつかない状況が続きました。石巻はどうなっているのか、親戚は無事なのか、もう会えなかったらどうしようか……。他の地域も大変なのはわかってはいるけれども、そのことしか頭にありませんでした。

 

事態が動いたのは、発災から5日目の昼、だったと思います。ついに石巻中心部の状況がわかる映像が流れました。旧北上川の河口から市内中心部を映した、上空ヘリの中継でした。すぐさま録画していた映像を母と確認し、映像を一時停止させ、その被害の大きさに言葉を失いました。沿岸はもうぐしゃぐしゃで何が何だかわからない。それでも、私にとって一番近い親戚である、祖父母といとこ家族の住む家のあるあたりは、浸水はしているかもしれないけども、流されたわけではなさそうだということがわかった瞬間でした。高齢で足を悪くしている祖父母は家にいるだろうと思っていたことから、少なくともその二人は無事である可能性が高くなりました。

その日の夜か、いつだったかは忘れてしまいましたが、その映像が流れてからすぐだったと思います。自宅に一本の電話が入りました。それは、おばからの無事を知らせる電話でした。私の祖父母、おば、いとこは無事であると。そのとき、力がふっと抜けたような気がしました。

 

その後、おばを通して親戚の情報が入ってきました。父のいとこ家族は無事であるが、父のおじとおばは亡くなったこと、ちょっと離れた親戚の方が車で避難しようとして津波に巻き込まれて亡くなったこと、またその状況……。特に、父のおじとおばには一度会ったことがあったために、すごくやるせない気持ちになりました。

 

とりあえず、あの日のことに関連するものはここまで。私が震災後初めて現地入りしたときのことも書こうと思っています(多分次の記事)。おそらく、地震関係のことにかかわりたいと思ったのは現地入りしたときの経験の方が強いと思われます。いずれにせよ、私が震災に固執し、東北に進学し、沿岸部を回っているのはこのためです(記事は上げていませんが、昨年末には福島県富岡町いわき市に、年始には三陸沿岸を訪ねました)。

9年目の3.11は名取市閖上に行きました。閖上はブログを始めるきっかけになった地でもあります。そのときのこともまたどこかで。

 

それでは今回はこの辺で。最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

p.s. 父のおじ夫妻が遺したお菓子屋さん、アルパジョン。今は父のいとこが経営しています。とても美味しいお菓子ばかりなのでぜひ。