2011年5月。

こんにちは。管理人です。

今回は前回記事(まだご覧になっていない方はこちらから)の続きです。備忘録的に書いているため、文章にまとまりがない点はご了承ください。

 

5月の連休。ようやく石巻入り。両親は3月下旬に現地入りしていましたが、私は現地が危険な状況である可能性があったため行けず。連休明けすぐ行われた小学校最後の遠足に行かないという選択をし、家族で向かうことになりました。

さて。祖父母といとこ家族が暮らす家周辺はきれいになっており、とても浸水した地域とは思えませんでした。が、よく見ると塀に浸水した跡が。大人の膝下くらいの高さだったと思います。また、道路には乾いた砂がこびりついており、風が吹くと砂埃も気になる感じでした。

おばの車に乗せていただいてアーケード商店街、石巻中学校へ。商店街はシャッターが下り、津波でベコベコに。後片付けをしているのか、一部人のいる店舗もありました。石巻中学校に向かう途中に、がれきが山積みになっている地域を通りました(どのあたりの地域だったのかは全くわかりません)。道路もとりあえず通行を確保しただけで、砂に覆われたまま。とても現実の光景とは思えませんでした。そして、生臭いような匂い。窓を閉めて、マスクもしていたにもかかわらず、ちょっと匂いがした記憶があります。未だにあの光景を思い出すと匂いまでセットで出てきます。海辺で魚の匂いがするとあの光景に結びつく時期もありました。これでも匂いは落ち着いた方で、ちょっと前までは臭くて歩くのは無理だった、と言われた記憶。石巻中学校は当時避難所として使われており、体育館には避難している方がいらっしゃいました。避難所で配られているお弁当を受け取るために向かったのでした。

 

がれきが山積みになっている光景はテレビで何度も見ていたはずなのに、とてもショッキングなものでした。あのときの会話を思い出すと、おばが街中の様子を見に行くことを提案してくれ、両親も行っておいで、という感じだったような気がしています。私自身石巻に行くことを切望していたため、私にとっては何ら違和感のない会話なのですが、よくよく考えてみるとそんな光景であるというのを両親もわかっていたはずで、両親としても見ておくべきだと考えていたのかもしれません。また、おばはその後に訪ねたときには震災当時の話をしてくれたり、2018年の夏には旧大川小学校や女川に連れて行ってくれたり(しかも提案してくださった)、おばにも何か考えがあったのかもしれません。私としてはとてもありがたい存在です。もっとも、2018年はすでに大学進学後のため、興味があることを知っていたから提案してくれたのかもしれませんが。

何が言いたいのかというと、この時のおばの提案、両親の後押しがなければあの光景を見ることはなかったわけで、それがなければ大学進学に至る原動力はなかったと言っても過言ではないわけです。そもそも、あの震災が起きなければ東北に進学することはなかったと思います。たぶん。大げさに言えば、ある意味、「震災に運命を狂わされた人間」の一人なわけです。あれがなければ震災復興というものに興味を持たなかっただろうし、こうやってブログを開設することもなかったでしょう。

 

今日はここまで。お読みいただきありがとうございました。

9年前のあの日のこと。

ご無沙汰しすぎております。管理人です。

ブログを書かなきゃと言い続けて、丸1年が経過しておりました。ゆるく、まったりとではありますが、ぼちぼち書いていこうかと思っておりますのでどうぞよしなに。

 

さて、今回は私が地震災害に興味を持ち、今の進路のきっかけになったとも言える、東日本大震災について書こうかと思っております。先日、あの日から9年が経ちました。月日というのは早いもので、当時小学生だった私も大学生になりました。記憶に基づいて書いていくため、思い違いもあるかもしれませんが、その点ご了承ください。

 

あの日のことについて書く前に、私がこの災害に対して強い思いを抱いている背景を軽く。私の生まれは北海道なのですが、父方の親戚が宮城県石巻市に住んでいます。幼い頃から年末年始は祖父母といとこ家族の家に行っていたため、地震というものは結構身近な存在でした。ちょっと強い揺れでも、「また揺れてるねぇ」くらいの感じ。そんな人々の様子を目にしてきました。

そんな中発生した、東日本大震災。発災時刻の14時46分。その日は授業が早く終わり、母が小学校の図書館で作業していたため、私は校内に併設された児童会館にいました。正座して(この姿勢が一番楽だった)漫画を読んでいたとき、体が大きくつんのめったのを覚えています。スタッフさんの誘導ですぐさま部屋から出て、廊下の中央へ。ものすごくゆっくりとした揺れで、めまいがしそうでした。しばらくして揺れが収まり、部屋に戻ってまた各々自分の好きなことを再開。が、揺れは一度では終わりませんでした。2回、3回と揺れたでしょうか、低学年の子たちは軽くパニックになっていました。揺れる度に廊下に集まり、こわいこわいと言ってスタッフさんにしがみついている子もいました。

大きな揺れはそれで落ち着き、その後、母が迎えに来ました。車に乗り込み、すぐさまテレビをつけました(当時の車内では後部座席でテレビが見られました)。そこで飛び込んできた、震源は宮城沖で最大震度7、太平洋沿岸に大津波警報発令の文字。自宅に帰る途中に流れた、上空ヘリからの中継で、仙台平野に向かっている沖合の津波の映像。そして、福島第一原発が水素爆発を起こしたという情報。この世の終わりかのような映像が流れ続けていました。

家に着いてからはずっとテレビにかじりついて情報を得ようとしていました。安否確認の伝言板と、津波や火災の映像、さらに原発の状況が繰り返し流れていました。それと、忘れてはいけないACジャパンの広告。あのCMを聞くと今でもあのときの緊迫した放送の様子が思い出されます(そして軽くトラウマです)。

夜になり、被災地に徐々に中継が入るようになってきました。宮城県では気仙沼、南三陸東松島、岩沼、女川など。……石巻からの中継がありません。その頃からでしょうか、母は外出時のニュース番組を片っ端から録画するようになりました。父はネットで親戚の情報を集めようとしていました。何で近くの街には中継が行っているのに石巻はないのか。そう私が言ったのに対し、(確か)父がぼそっと返した言葉が「こりゃ石巻は相当やばいんだろうなぁ……。」中継がない=取材に行けない、ということだとは思いもしませんでした。その言葉に愕然とした記憶があります。

 

12日の朝。地元紙の朝刊にでかでかと載った「M9.0」の文字と、巨大津波にのみ込まれる街の写真。あの一面の異様さは衝撃でした。その日の夕方だったでしょうか、民放でついに石巻市蛇田からの中継が入りました。が、中心部の様子など具体的な情報は一切なし。蛇田は内陸よりの地域であるため、それが限界だったのでしょう。中継が来たことで少しほっとしたと同時に、「中には入れなかった」ということがずっしりと響きました。

その後、待てども待てども石巻からの中継はなく。もちろん親戚とも連絡がつかない状況が続きました。石巻はどうなっているのか、親戚は無事なのか、もう会えなかったらどうしようか……。他の地域も大変なのはわかってはいるけれども、そのことしか頭にありませんでした。

 

事態が動いたのは、発災から5日目の昼、だったと思います。ついに石巻中心部の状況がわかる映像が流れました。旧北上川の河口から市内中心部を映した、上空ヘリの中継でした。すぐさま録画していた映像を母と確認し、映像を一時停止させ、その被害の大きさに言葉を失いました。沿岸はもうぐしゃぐしゃで何が何だかわからない。それでも、私にとって一番近い親戚である、祖父母といとこ家族の住む家のあるあたりは、浸水はしているかもしれないけども、流されたわけではなさそうだということがわかった瞬間でした。高齢で足を悪くしている祖父母は家にいるだろうと思っていたことから、少なくともその二人は無事である可能性が高くなりました。

その日の夜か、いつだったかは忘れてしまいましたが、その映像が流れてからすぐだったと思います。自宅に一本の電話が入りました。それは、おばからの無事を知らせる電話でした。私の祖父母、おば、いとこは無事であると。そのとき、力がふっと抜けたような気がしました。

 

その後、おばを通して親戚の情報が入ってきました。父のいとこ家族は無事であるが、父のおじとおばは亡くなったこと、ちょっと離れた親戚の方が車で避難しようとして津波に巻き込まれて亡くなったこと、またその状況……。特に、父のおじとおばには一度会ったことがあったために、すごくやるせない気持ちになりました。

 

とりあえず、あの日のことに関連するものはここまで。私が震災後初めて現地入りしたときのことも書こうと思っています(多分次の記事)。おそらく、地震関係のことにかかわりたいと思ったのは現地入りしたときの経験の方が強いと思われます。いずれにせよ、私が震災に固執し、東北に進学し、沿岸部を回っているのはこのためです(記事は上げていませんが、昨年末には福島県富岡町いわき市に、年始には三陸沿岸を訪ねました)。

9年目の3.11は名取市閖上に行きました。閖上はブログを始めるきっかけになった地でもあります。そのときのこともまたどこかで。

 

それでは今回はこの辺で。最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

p.s. 父のおじ夫妻が遺したお菓子屋さん、アルパジョン。今は父のいとこが経営しています。とても美味しいお菓子ばかりなのでぜひ。

名古屋②

前回更新からかなり経ってしまい、気づけばもう12月になろうとしています。相変わらず風邪に悩まされている管理人です。ご無沙汰しています(^^)

今回は夏のサークル合宿の翌日、8月30日に少しだけ名古屋をお散歩したので、それについて書こうと思います。

 

…とは言いましても、前日までどこに行くか全く決めていない状態でした。15時頃には空港にいなければならなかったので、そんなに時間もとれない。うーんどうしようかと地図とにらめっこして、結局行き先を決めたのは当日の朝でございました。

 

そして向かったのは…

名古屋市科学館


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もっと早くにここの情報を仕入れておくべきでした。とにかく楽しい。ここまで規模の大きい科学館に行くのは初めてでした。本当に時間が足りず、駆け足で展示を眺めることしかできませんでした。次はここを目当てに名古屋に行こうとさえ思いました。物理が好きな方には本当におすすめです。中でも面白かったのは竜巻の発生装置です。どのようにして竜巻ができるのかがよくわかる装置でした。また、展示とは関係ありませんが、エスカレーターのステップが回る様子(伝われ!!)が見れたり、原子周期表のようなロッカーがあったりなど、好奇心を満たすには十分すぎる空間でした。絶対また行きます。

 

お昼を近くの「ソルティーシュガー」というお店で食べたのですが、なんとこのお店、科学館などの施設のチケット半券を見せると割引してくれるサービスがありました。安くおいしい料理を食べることができて大満足でした。

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その後は駅ビルで少しお土産を見るなどし、空港に向かったのでした。

 

 

ようやく夏のお話を昇華させることができました。いつまで夏休みの話を書いているのかという感じもいたしますが、今後はできるだけ速いペースでたまっているネタを公開できるようにしたいと思っておりますので、どうか当ブログをよろしくお願いいたしますm(_ _)m

それでは今日はこの辺で。またお願いします!

 

岐阜 中濃地域

ブログの更新をしなくてはとあたふたしているうちに、もう10月も終わろうとしています。更新が遅くなりすみません。お久しぶりです(^^)

さて、今回は8/27~29で行われた、街歩きサークルの夏合宿について書きたいと思います。前回の記事でも触れましたが、なんとか岐阜市のホテルでの集合時間に間に合った(?)のが27の夜。翌日28日からが合宿の本番です。

28日。ホテルをチェックアウトし、まず向かったのは

岐阜城

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ちょっとカメラの設定で明るくしすぎたので空の色が飛んでいますが、この日も気持ちのいい青空が広がっていました。岐阜城天守閣は、固い岩石で出来た「金華山(標高329m)」の山頂に位置しています。ここまで行くには、登山とロープウェイの二種類手段があるのですが、ここで我々のサークルは何を思ったか、登山を強行することに。途中で、健脚の方向きの尾根沿いのコースと、ファミリー向きの蛇行しながら登るコースに分かれ、私は後者のコースで登りました。距離が長いこともあり、登るのはとても大変でした。(この間に10ヵ所近くも蚊に刺されていたことが判明し、夜になって腫れてきたのでつらかった…。)登ったものの、岐阜城自体を見ることはなく、山頂から岐阜の町並みを堪能しました。城を見てこなかったのは少し後悔しています。帰りはさすがにロープウェイを使って下山しました。

岐阜城を後にし、次に向かったのは

 川原町

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ここは、昔ながらの街並みが保存されている地域です。とても情緒のある街並みで、この地域に到着した瞬間、思わず「うわぁー!!」と言ってしまったのを覚えています。伝統工芸のお店などもあり、タイムスリップしたかのような感覚を味わいました。

岐阜駅で昼食を食べたあと、バスで美濃市へ。岐阜城での登山が堪えたのか、移動中は爆睡しておりました。眠たい目を擦りながら、市内の散策へ向かいました。

うだつの上がる町並み

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なぜ私は「うだつ」がはっきりわかる写真を撮ってこなかったのでしょうか…。携帯のバッテリーがギリギリだったのもあるかもしれません。「うだつ」というのは、家の両サイドからひょこっと上に飛び出た部分のことです。(調べてみるといい画像が出てくると思います。)この「うだつ」、当時は財力のある家しかつけることができなかったもののようで、この辺りにはうだつの上がっている家が多いことから、長良川を用いた交易などで発展した街だったようです。

そんな町並みを離れて、次に向かったのは

道の駅 美濃にわか茶屋

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ここでは、美濃市の工芸品や特産品を見て回りました。綺麗なちりめん細工や、美味しそうな野菜など、様々なものが売られていました。ここで驚きの事実が判明します。なんと、美濃市と北海道士幌町姉妹都市だったのです。何故か美濃で北海道産の野菜が売られていて、どうしてなのかと疑問に思っていたところ、そのようなポスターが貼ってありました。私の出身である北海道との繋がりが見え、少し嬉しくなりました。

その後、長良川沿いを散策したのですが、途中で川原に降りられるところを発見。今回のサークルの合宿では男子が多かった(というより女子は私一人だけだった)のですが、男性陣が突然水切りをし始めました。時間を忘れて遊んだり、足を休めたりと、思い思いに水辺でのひとときを楽しみました。

それから、長良川鉄道で関市に向かい、この日のすべての行程は終了しました。

 

翌29日。この日の最初の目的地は

善光寺

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このお寺には、地蔵さまが並んでいる道があり、ここを歩くとお遍路参りをしたのと同じと見なされるところがあります。私はすべて歩いてきましたが、なかなかの山道で足場が悪く、勾配があるわけではないのですが少し大変でした。朝イチで行ったということもあり、境内を含むお寺全体が、すごく厳かな雰囲気に包まれていました。

その後、お寺のすぐ近くにある惟然記念館を見学しました。ここは、松尾芭蕉の門人であった広瀬惟然が晩年を過ごしたとされる建物で、「弁慶庵」とも言われています。関市と俳諧の繋がりについて知ることができました。

次に向かったのはフェザーミュージアム。実は関市、刃物が有名なんです。安全カミソリで知られる、株式会社フェザーが、世界初の刃物の総合博物館としてオープンさせたものです。刃物の歴史や役割など、様々なことを学ぶことができました。

昼前に関市を離れ、長良川鉄道とJRを乗り継いで向かったのは、暑さで有名な多治見市。この日もかなり気温が高く、私たちがいた時間での最高気温は…

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いやぁ、暑かったです。これに湿度が重なり、体感的にはもう少し暑く感じました。あまりに暑いので、手短に散策することに。向かったのは

本町オリベストリート

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ここも街並みを保全している地域のようで、趣深さがありました。多治見市は陶芸が盛んなようで、陶芸家のギャラリーやショップがあった他、当時放送中であった朝ドラ半分、青い。」の舞台ということで、そのお店のようなものもありました。ここで昼食を食べ、うだるような暑さにぐったりしながら、散策を終えました。

その後名古屋駅に移動し、サークルの合宿は解散、ということになりました。飛行機の都合で翌日帰る予定だった私は、このあとホテルに向かい、すぐに眠りに落ちたのでした。

 

もう1日、名古屋をお散歩したので、次回はそれについて書こうと思います。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。またお願いします!

名古屋 長久手

ここ数日の気温の変化により、体調を崩しがちな管理人です。ご無沙汰しております(^^)

さて、今日は1か月前、8/27~29で行われたまち歩きサークルの夏合宿について書きたいと思います。とは言いましても、それに伴って個人的な旅行もしており、今回は8/26,27に訪ねた所についての記事です。合宿本編の記事は次回更新で書こうと思っています。

 

26日、名古屋に初上陸しました。中部地方初上陸でした。お昼頃に到着したのですが、

とにかく暑い。湿度が高い。

今年は記録的な猛暑であったこともありますが、元道民の私としては非常に堪えるものがありました。歩いているだけで汗が止まらない状態でした。こういうところで暮らすのは、慣れの問題もあるかと思いますが、大変だなぁと感じました。

そのような暑い日であったにも関わらず、この二日間は都市公園巡りを決行しました。まず最初に向かったのは

久屋大通公園

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ここは札幌の大通公園とよく似ている、との情報を名古屋入りの直前にゲットしたため訪ねました。写真がこの1枚しかないのですが、テレビ塔の形、公園の周囲の木、その回りのビルなど、確かに似ているなと感じました。写真からもわかると思いますが、この日は雲ひとつない快晴。本当に暑い日でした…。

名古屋駅から久屋大通公園まで、何を思ったか徒歩で向かったため、1ヶ所目にして既に疲れてしまいました。このあとは地下鉄一日券である「ドニチエコキップ」を使いました。

次に向かったのは東山動植物園…だったのですが、思っていたよりも入園料が高く、また、無料で入れる箇所がなかったということもあり、結局東山公園駅から星ヶ丘駅まで歩くことにしました。ただこの東山、地図上で見れば駅が近いように見えたのですが、思ったよりもしっかりとした山で、暑さで体力が奪われていた身としてはかなりきついものがありました。いろいろな意味で予想を覆された場所でした。

その後、せっかく名古屋に来たのだからと熱田神宮にお参りし、この日最後に向かったのは

鶴舞公園

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ここは名古屋市最初の都市公園として整備された公園で、1909年に開園しました。写真の噴水塔はこの公園のシンボルとなっています。夕方、日も傾いてきた頃の時間帯で、とても落ち着いた、ゆったりとした時間を過ごせました。

この日は栄のホテルに宿泊しました。夜20時を過ぎたというのに、地上に出るとかなり湿度が高く、これが名古屋かと思ったのを覚えています。ちなみに、久屋大通駅から地下鉄に乗り、栄駅で一日を終えたため、環状路線である名古屋市営地下鉄 名城線をほぼ1周したことになりました。

 

翌27日、念願のモーニングを食べ(美味しかった!)、最初に向かったのは

モリコロパーク

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ここは2005年に開催された万博である「愛・地球博」のメイン会場となった場所であり、現在は愛・地球博記念公園(通称 モリコロパーク)として整備されています。写真は園内にある「サツキとメイの家」です。スタジオジブリの作品、「となりのトトロ」に登場する、主人公一家が引っ越してきた家がそのまま再現されています。ここの素晴らしいところは

 家の中のものを自由に触れること。

屋内は撮影禁止となっているのですが、タンスやふすまなどを自由に開けることができ、またその中のものも触ることができます。お父さんの書斎と屋根裏へと続く階段は立ち入ることができませんが、それでもすごく興奮しました。最後にトトロを観たのがかなり前ということもあり、ちょっと覚えていないところもありましたが、また観返してみようと思いました。

午後は名古屋に戻り、前日行けなかった名城公園へ。

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ここはその名の通り、名古屋城のすぐそばにある公園です。園内の風車がとても趣のあるものだったのでパシャリ。ここでのんびりしたところで、何を思ったか名古屋城には行かず、また何を思ったかここから名古屋駅まで歩くという暴挙に。(このあと駅で買ったフラペチーノは今までの中で一番美味しかった!笑)この日の宿泊先である岐阜市に向かい、なんとかサークルの集合時間に間に合った(?)のでした。

 

かなり長くなりましたが、今回はこの辺で。またお願いします!

東松島 小野 野蒜

体調不良と部活の合宿により、更新が遅くなりました。ご無沙汰しております(^^)

さて、14日の最後に訪れたのは、東松島市の小野地区と野蒜地区です。当初の予定では小野に立ち寄る予定はなかったのですが、時間があったので寄ってみることにしました。

なぜ、予定になかった小野地区に行ったのか。その理由は…

おのくんに会うため!!!!

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おのくんとはなんぞや、と思った方もいるでしょう。この写真に写っているのが「おのくん」です。私がおのくんの存在を知ったのは今年の3月11日。震災後、陸前小野駅のそばにできた応急仮設住宅で、地域のお母さん方が復興を願って作り始めたものだそうです。靴下に綿を詰めて作られるおのくん。この愛くるしい表情がたまりません。靴下のデザインがそのままおのくんに生かされるため、カラフルなおのくんが存在し、大きさも様々です。1,000円で里親になることができるので、是非ともお気に入りのおのくんを見つけてみてほしいと思います。おのくんについて、詳しくはこちらのリンクから↓

http://socialimagine.wixsite.com/onokun

陸前小野駅そばの応急仮設住宅「空の駅」。ここでおのくんが作られており、おのくんや関連グッズも販売されています。

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続いて向かったのは野蒜(のびる)地区。津波により、海岸沿いの低地は壊滅。現在は街ごと高台に移転しています。

↓高台に移設された、仙石線野蒜駅。モダンな印象のおしゃれな駅舎でした。

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津波に飲み込まれた、旧野蒜駅。近づいてみると、照明や案内看板が曲がっていました。

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低地部分に降りてみると、旧野蒜駅を中心とした復興祈念公園が整備されていました。旧駅舎には、被害のようすを伝える情報センターのようなものがありました。被災から現在までの東松島市全体の様子を伺い知ることができました。復興祈念公園と高台部分の間には、自力再建したとみられる住宅が何軒か建っていました。電線等も整備されており、一応住むことは可能なようです。しかしながら、基礎部分が残された草原の横で、現在生活が営まれている家があるという光景は、なかなか奇妙に感じました。旧野蒜駅から海岸に向かって歩いてみましたが、草原が広がり、所々に畑のようなものがあるだけでした。途中、長めの杭のようなものがたくさん並んでいる場所がありました。杭の様子から、もしかしたら以前の住宅区画を示すものだったのかもしれません。次に行ったときにはその辺りも調べてみたいと思います。

それでは今回はこの辺で。またお願いします!

女川

晴れたり急に雨が降ったり、不安定な天気が続いていますね。湿度の高さにやられそうになっている今日この頃です。

 

さて、今日は昨日に引き続き、14日に訪ねた場所について書いていきたいと思います。大川小を訪問した後、女川へ向かいました。お昼頃だったのですごく暑かったです。

女川は今回が初めての訪問でした。震災でかなりの被害を受けたこの町ですが、女川駅を中心とした、復興に向けてのまちづくりが行われていました。

↓女川の復興のシンボルとも言うべき存在になっている、女川駅舎。温泉施設も併設されています。

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↓駅舎の展望テラスから。海寄りの地域には食事処や土産物屋などがありました。

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津波で大きな被害を受けた港部分。写真左のフェンスの向こうにある黒っぽいものは、津波によってひっくり返された交番だそうです。写真右方向から倒されたのでしょうか、こちら側には屋根部分が見えていました。

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↓駅舎の西方向。かさ上げが行われており、住居などもまだまばらな状況でした。

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駅前周辺こそはお盆休みということもあり、多くの人で賑わっていましたが、少しここから離れてしまうと、まだまだ「町」というものが機能しているとは言いがたい状態でした。災害公営住宅もまばらにしか建っておらず、かさ上げ工事も同時に行われているという感じでした。石巻線開通と同時に「まちびらき」を行った女川ですが、震災以前のような町に戻るには、しばらく時間がかかりそうです。しかしながら、石巻沿岸や松島に比べ、工事が進んでいるように見えたので、また訪ねてみたいと思います。

 

それでは今日はこの辺で。またお願いします!